気づきは、癒し。
ブログ書きながら思うのは、つくづく私は「気づく」ことが好きなんだなあ、ということ。
こんなにおもしろいことはない。
いや、ほかにもおもしろいことたくさんあるけどさ。笑
気づきってエネルギーだから。
気づくと変わる。
変わるものはいろいろだ。
気づくと、意識が変わる。
気づくと、エネルギーの在り方が変わる。
気づくと、エネルギーの流れ方が変わる。
気づくと、行動が変わる。
気づくと、実は肉体が変わる。(ここはちょっとタイムラグあります)
気づくと整うから、エネルギーが通りやすくなり、いろんなことがまわりやすくなる。
すべてこの瞬間に起こっていること。
つまり、気づくと自分の世界そのものが変わるの。
気づきは、癒し。
自分だと思っていた価値観そのものも変わるし、
自分が生きている世界だと思っていたものが変わるし、
人のせいだ、と思っていたことも、全部自分自身のことだった、と見えかたが変わるし、
過去の記憶の意味も変わるし、
ということは、過去だと思っていたもの自体が変わる。
同じように未来の意味も変わる。
過去だと思っているものは、今この瞬間に持ち続けている記憶エネルギーなだけで、
未来だと思っているものも、今この瞬間にうごめいた想像エネルギーなだけで、
案外人間は、過去と未来を思うことに今の瞬間を費やし、この瞬間自体をすっぽかして生きている。
私も気づきのサポートとして、今までもいろんなものの助けを借りている。
自分自身がプラクティショナーとして使っていたNESのセッションもそうだし、時空間を超えた座標へアクセスするバケモノ(笑)timewaverセッション、マトリックスリインプリンティングなど各種セッション、ホメオパシー、フラワーエッセンス、気功、アロマセラピー、身体ゆるめる系ボディワーク、内観問いかけワーク、絵を描くこと、ぼけっとすること、食べもの、お散歩、音楽、山、森、書くこと、話すこと、 etc,,,
、、、書ききれんぞ、ていうか、生きることすべての瞬間が気づきの源泉だしな。
あらためてみてみると、たくさんの瞬間に助けられているなあ。
ありがたやありがたや。
どれも単なるツールでしかなくて、どれでもよくて、それぞれの人の今にとって、必要なものが違うだけ。
そして常に必要なものも選択も変わる。その自由さ。
昔必要だったものに固執する必要もない。
それだけたくさんの色とりどりのツールが地球にはあふれ、開かれている素晴らしさ。
ありとあらゆるセッションやセラピー、治療は、気づくためにあると思う。
何かを治すためじゃないの、ほんとは。
治るのはおまけだから。
それが自然療法だろうと代替療法だろうと、何かを治すためにやってる時の意識は対処療法的。
対処療法も、一旦症状をラクにすることで気持ちも身体にも余裕ができるから、道のりの手段としては必要でだいじなことだし、それはそれとして、わかって使うことが大切なんだと思う。
自分がどの意識で、なんのために今そのツールの力を借りているのか、ということ。
何かを治すためにやると、それに依存的になりやすくなる気もする。
「わぁ!!これすごい!!素晴らしい!!」と感動するけど、対処療法的に使う限り同じ状態はくり返す。
根っこのパターンが癒されてなくて、症状が起きるパターンは変わっていないから。
そして「私を治してくれる素晴らしいコレ♪」を手放せなくなり、時には競合するものや、他の方法をやんわり無意識にマウンティングすることで、自分が頼るものの素晴らしさ、自分の信じる正義を絶対的にしようとしてたり。
あ、これ、療法に限ったことじゃないですな。あらゆるところで起きる。
私もやってしまうし、誰でも無意識にやってること。
それは別に悪いことではないし、ラクになることも素晴らしいけど、たぶんそのやり方はほんとはだんだんしんどくなるよな。
でも、その時はそれが必要だからそうやるんだと思う。
常にいのちは、今のバランスにおいて最善のことをする。
そうやりながら、アレ?と、その都度気づいていけばいいだけで、常に選択は自由だ。
私も治療が始まった最初は「私に何が効くのか」に意識をむけてました。
どんな療法が私のガンには効くのか、とか、
私に効く食事療法はどれだろう、といろんなメソッドを試したし。
そして、自分がうっすら感じている身体と心の違和感よりも、方法論を最初優先させてしまった。
「だって続けたらコレが私を治すかもしれないし!」
チゲーだろ 笑
逆、逆。
2月の腫瘍の大増殖でいろいろ気づかされたよ。
意識の在り方がそっちじゃなかった、ってね。
あれだけ学んだり歩いてきても、実際身体に病気を抱えてみると「治るためには何が効くのか」をやっちゃうもんなんだなぁと、しみじみ頭の学びだったんだなぁ~と痛感したと同時に、病気が体験させてくれることの大きさに畏敬の念を覚えているところ。
そうやってジタバタもがきながら味わい生きる人間の愛らしさ、
あちこちぶつけながら、不完全な人間まるごとで太く泳いでいけること。
この世の深遠な奥深さ。
不完全だから完全って、すごくね?
どの出来事も単なるツールでしかなくて、なんでもよくて、今のタイミングでの湧いてくる必要なことと自由に遊べばいいだけだな~と感じる。
やらかしてみたからこその気づき、かな。
いつか、timewaverの手助けでやっていることを、ちゃんと書いてみたいなあと思う気持ちがあって。
とはいえ、1回1回が時空を超えた膨大な情報量と、セッション後もある意味宿題の連続だから、すべてを言語化するのはもはや不可能だなあ、と思いつつ、これからもマイペースに書きたいことを書きたいときに残してみようと思います。