LIFE LOG

日々のこと、ガン治療、NES、TimeWaver ....いろいろなことをつづります

選ぶこと、決めること

 

 

治療生活は「選ぶこと」「決めること」の連続。

治療に限ったことではなく、まあ人生は選択の連続だけど。

常に何かを選び、選ばなかった選択肢を手放す。

 

去年の秋、腹痛で最初に入院して病名がわかったあと、治療をどこでどのように受けていくか、補完代替療法はどうするかに始まり、常に決断の連続で、命に関わる選択を自分で決めていくことを負う責任と不安がすごくあった。

過去形じゃないな、今だってそのドキドキはいつもある。

 

告知を受けた頃、抗がん剤投与で1泊入院してたSさんが声を掛けてくれたので、これから病院や治療を選択していくこと、決めていくことへの不安を話した。

Sさんは、

「どんな高名な名医、病院でも、ハートがピンと来ないなら頭で決めないで。自分のハートがほわっとピンとくる出会いの方を選ぶのよ。それが自分のいのちの選択。自分にしかできないの。いい?ハートで決めるのよ。そうやって決めた病院、治療法なら大丈夫よ。」

 

Sさんと話をしながら、告知後初めて私は泣いた。

不安を受け止めてもらった安心の涙と、とてもだいじなことに触れた時のふるえる涙と、新しい人生のスタートを切るんだという決心の涙。

 

とはいえ、これだー!と澄みきったハートからの決断をできるときはなかなか無い。

大抵、いろいろと考えすぎてしまう。

うー、うー、と気持ち的に苦しんだ末に、かすかにハートはこっちって言ってる気がする。。。程度のおぼろげな手触りをよすがに決めてきている。

 

何かを決めるときに、こんなに怖さを感じることは今までなかった。

大事なことをわりとパッと勘で決め、今まで転職もしまくってるし、結構大きく人生の方向転換やチャレンジをぴょーんとしてきた方だと思う。

仕事や暮らしのもろもろのことは、多少選択をミスってもよっぽどじゃない限り命までは失わない。

でも、今向き合わされているいろんな選択は毎回怖い。

大きな選択の分岐点にくるたび、毎回心がヒリヒリする。

だって私、まだ死にたくないんだもん。

 

なんで恐れが湧くかって、なんだかんだいって死への根源的な恐れの感覚があるからだ。

ハートの奥では自分が生還するってわかってる。だからどんな選択をしても大丈夫だとわかっていつつ、死なない正解を選びたい、間違えたくない、っていう恐れも湧く。選択を間違えたら死ぬかも、っていう恐れのイメージも私は同時に自動再生されちゃう。

思考は、自分の選択で取り返しのつかない方に進んでしまったらどうしよう、の囚われで右往左往する。

この優等生的囚われを手放すことも、病からの宿題のひとつ。どんな選択をしても大丈夫だ、と肚の底で信頼していけるように。

 

代替療法の世界にいると、ガンや難病が治った話は山のように聞く。

私も自分のクライアントさんにそういう話をたくさんしてきたし、逆に今は、私が人からそういう話をたくさん聞かされる立場になっている。

ガンになってるということを、遠回しにアナタは波動が低い、と伝えてくれる人もいるしね。

まあそれは事実だろうけど。

 

実際にいろんな選択や決断をしていく羽目になって感じたのは、病との向き合いにはなかなか精神力とエネルギーがいるということだ、いろんな意味で。

今まで人に「大丈夫だよ、がんは治るよ」と、病気を経験したことのないのに知識で言っていた自分は、なんて無邪気だったんだろうと思う。

もちろん真剣に元気になってほしいという思い、励ましの気持ちで伝えていた。

ただ、どこか、私は健康だし安全な場所にいる、と、無意識に上から目線だったかもしれないし、「私は知っている」と思っていた傲慢さ、無知さを今、つくづく噛みしめている。

 

私がサポートを頼んでいる施術家さんたちは皆、

「何が正しいはないよ。もし正解があるとすれば、自分がどうしたいのか。自分で決めたことが正解。」と。

親友も「どんな選択をしても間違いはないよ」と言ってくれる。

自分の選択が自分の命の手綱を握ってるという、その責任がまだドキドキしてこわいのだ。

どんな選択も大丈夫なんだと思いつつ、自分の命の力をまだ完全に信頼しきれていないのかもしれない。

 

正しいと思える方を選ぶのは、頭が安心しやすいのだと思う。

自分の選択が合っているんだ間違っていないんだと、誰かが保証してくれる気がして。

それは誰が保証してくれるんだろう、、、??

周りの人?

でも周りの人は私の人生を代わりに生きてくれるわけじゃない。

何かをしようとするとき、それを許さないのは他人ではなく何だかんだ結局自分自身なのだ。

 

自分のほんとうに感じている選択肢を選ぶのを許すこと、

自分のつながりたいところにつながること、

切りたいものは切ること、

先の見えない状態のまま、内側から湧くもので生きていくこと、

つまりは、私でいることから逃げないという責任を自分に約束したいのだ、私は。

これが唯一、引き受ける責任。

そもそも、病気の時だけでなく。

病気は、そうやって生きていく選択をするレッスンなのだろう。

 

去年の12月、Sさんに話を聞いてもらった後の大きな選択の前にやっぱりどうしてもハートの声が感じられず、友人に「困ったよ、わかんないよ、決められないよ」と電話したら、「頭空っぽにして外歩いておいで」と。

病院を出て無心に歩いていると神社があったので、「選ぶインスピレーションを湧かせてください」とお願いして、冬のキーンとした空気の中ひたすらに無心で歩いた。

そしたらふと「おもしろい方を選べ」って湧いてきた気がした。

おもしろい方かあ。。。

 

結局その時は迷ったあげく、勇気を持って、おもしろい方を選んだ。

正しいと思えた方を手放した。

その選択は今も後悔していない。

 

なんで今日、こんな記事を書いているかっていうと、そろそろまたひとつ選ばないといけないことがあってね、どんな選択をしても大丈夫ともう一度自分に伝えたくて、書いたのよね。

そうして「ハートがほわっとおもしろい方を選ぶ」勇気を、また自分の中にひらきたかったのかもしれないな。

 

 

 

 

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