メンタル激落ちくん2020夏至
前回のブログを書いた頃から薄々下り坂だったけど、夏至のあたりからさらにどんどん沈んでこのところずっとメンタル激落ちくんだった。
体調は変わっていないし、体力はあるし、元気なのだけど、半年ごとのCT検査結果で気持ちが折れちゃったのだ。
睡眠サイクルもおかしくてうまく眠れなかった。自己スキャンしたNESでもサーカディアンリズムがヤバくて、身体の巡りを整えようとしたりしてもどうもうまく働かない。リラックスする精油もダメ。
とはいえ、これを書いている今はもう結構気持ちが元気になってきたんだけどねー。いろんな人に泣きついて、うだうだ言って、じたばたして受け入れて。
この6月のザラザラ感を残そうと思って、先週のことを思い出して書こうとして、その時のヒリヒリしたメンタルに同調してしまって、今またズーンと落ち込んでいる。まったくアホか笑
こんなのいちいち書かないで、そのままエネルギーつかまずスルーさせて流せばいいことなんだけど、私にとってブログを書くのは腹の中に刺さっている小骨やヘドロを取ってぶちまけて洗い流して進むような作業で、つらいわーとブツブツ呟きながらつい書いてしまう。
自分が何を書いていたのかもいちいち覚えていないし、微修正をしたあとは基本読み返すことはない。放りっぱなしだ。
あーあ、だったらいちいちエネルギーつかまえず書かなきゃいいのに。つくづくおまえはめんどくさい奴だな笑
その前の、最新の血液検査でうすうす予想はついてた。
数値は数値。だから軸足を数値ではなく、自分のリアルな体感におこうとつとめているのだけれど。
でも、数字と画像のビジュアル的なインパクトは、メンタルにダメージを受けるのだよ。。。薬投与同様、復活するのに少し時間がかかる。。。
ガンは、本当の末期になるまではそんなに体感はないので、抗がん剤が抜ければ身体はそこそこ元気だし、悪い結果を聞いても体感での実感はわからない。
数値や画像を見ても、イメージだけの数字だけの世界のような気がして、これが自分のことなのか不思議だ。
でもあれだけ、通常の抗がん剤よりも強力な薬を使っておいて、そりゃないぜ~。せめて頑張ったごほうびをもう少しくれよ。
そんだけ強い薬を使ってるのに、予想よりダメージを受けていなかった私の体力もすごいと思うけど、それはガン細胞も同じことなのでした。
私が元気なんだからそりゃガンも元気だわな。
同一人物なんだからさ。
ガンだって私なんだからさ。
めちゃくちゃ天邪鬼な私の作り出したガン細胞だろ?そりゃあ天邪鬼だよな。
消そうとすれば「ンア?消えてやるもんか、フヌッ!!」って抵抗するよな。笑
ん?そういう理屈なのか???
抗がん剤を使わないで、代替療法と食事と栄養と感情に取り組んだ最初の3ヶ月でもガンは一気に増えたし、この増え方はヤバい、と、吐きそうなくらい悩んだ末、決断した抗がん剤治療を3ヶ月受けてみて、代替療法だけだった抗がん剤前の3月のマーカーが400だったのが、6月は4桁を超えてしまった。オーマイガー。
意を決してCTを受けてみて、結局さらに腫瘍が増え続けているとわかった。
こないだガン患者FBコミュで末期ガン患者の方が「ついに肝臓腫瘍マーカーCEAが300を超えてしまいました。。。」と悲痛な書き込みをしていたけれど、わたしの4桁はこれは一体どういうことなんだ。。。
マーカーに一喜一憂してはいけないと巷では言われているけれど、にんげんだもの、気になるさ。こんなに元気なのに〜泣
このルートは死ぬのかな、って思った。
ステージ4cとはいえ末期じゃない私が、死ぬかも、、、って思うのはまだ全然早いんだけど、凹んださ。
とにかく社交もしたくない。LINEやメールをもらっても返信を文で返すのが面倒くさく、スタンプだけで済ませたい、実は。
〇〇を手放せ、〇〇が問題、〇〇で免疫を上げろ、あれ飲め、これ食べろ、あれが効く、これを読んでほしい、ポジティブにフォーカスしろetc…
、、、私の人生、そんなに今まで間違ってた?
死に至るくらい、死刑にされそうなくらい、間違った人生だった? …って腹立ちが湧いてきて、何も信じられない。何もわからない。何も解決しない。そして腫瘍は増え続ける。
私が死んでも、この世界は問題なく粛々と続いていくし、この世は運行し続ける。今だって実際そうだ。
私がいなくなった時に、知っている人は最初は悲しんでくれるかもしれないけれど、それも時間とともに懐かしさに変わっていくだろう。
このブログを読んでくれているあなたも、私のこのむき出しの書き殴りをヒリヒリとしたエンタテイメント系自分語り読み物として、安全なところで眺めているだけなのだ。読んだからといって、あなたの皮膚から血が出てくるわけじゃない。(でもこうやって読んでくれてありがとう。)
すべては移りゆく。
この世はみんなつながっているけれど、ひとりきりでもある。
この世界は私を必要としていないように思える。
だからそうやって、私を終わらせようとしているの?
こんな風にちーん、となってるとタイムウェーバー君を通じた私の意識が言ってくる。
(注:timewaverやNESなどの機械はそれらが何かを分析して治してくれるマシンだと思ってる方もいるかもしれないけれど、全然違います。これらのマシンはある意味翻訳機です。自分の意識、エネルギーフィールド上に何が書かれているか見せてくれるもの。自分自身が発しているエネルギーを本人がわかる形に翻訳してくれるもの。調整にも本人のエネルギーを使います。だから治すのも自分だし、気づくのも自分。)
タイムウェーバー君が翻訳した私の意識にずーっと言われているのは、
「こうなるはずなのにそうならない、期待通りにならなくて落胆、のパターンを一体いつまで続けるつもりだよ?
自分の思い通りにいくと思っていることが幻想だよ。
とことん思い通りにならない経験をここまでしないと気づかないのかもしれないね?
期待通りにいくチケットなんて最初から持ってないんだよ。
なのにそこにそんなにエネルギーかけて浪費してるんだよ。
不確定性を生きな。
わからないことをわからないまま生きな。
そもそも時間が直線に流れてると思ってることが間違いなんだよ。
時間と空間を超えろ。
内省しすぎだよ。
人にふりまわされるな。
自分の内側の声を信じろ。」
心のどこかでまだ死ぬんじゃないんだろうな、というのはわかっているのだ。
この世は「信じるものは救われる」のだ。
信じるものがある人がうらやましい。
唯一信じるに足るものは、自分の内側の声だ。
なのにだからそれが聞こえねーんだよっ!!
わたしがぐるぐる悩んで頭をからっぽにしないからだよっ!!
ああ、こんちくしょうめ。
あれこれもがいてクローズドのコミュニティに質問を投げたら、古い友人が突然電話をかけてくれた。
びっくり。まさか読んでいるとは思わなかったから。
「ちょっとアンタ~、何やってんのよ~、まったく相変わらずなんだからぁ、バカじゃないの~? 頭カラッポにして休みなさいよぉ~怒」と久々に叱り飛ばしてくれて、彼の太い温かさに大泣きしてしまった。数年に1回のペースで、とんでもないタイミングで現れ、ホームランのように叱り飛ばしてくれる懐深いおじさん。ありがたすぎる。
別の友人にも、アロマトリートメントやってほしい。てかアロマ無しでも会いたい。会いにきて。と泣きつく。
そしてまた別の友人に、眠れない眠れないとLINEでダダをこねてたら、たまたま偶然街で出会い、うれしくて思わず飛びついて抱きついてしまった。あとで「あ、ハグされるの苦手な人だっけ」と思い出したけど、まあイイか。許して。
誰とも会いたくない!といいながら、人に癒される、そんな日々。
友人からや師匠からも「やりたいことは何?」と聞かれる。「生きたい理由を持つ」「やりたいことを持つ」ってのは治癒力アップに大切なこと。
。。。でもねえ、今、特にやりたいことないんだよ。
私がやってた仕事も、今はパッションが消えてしまった。追求すべき役目を持った人が今後もやっていくだろう。
ワクワクすること? 何も湧かない。
家でちまちまゆっくりのんびりしてるのが心安らぐ時間だ。
今の楽しみと生きたい理由は、旦那さんとずーっと一緒に過ごすことだ。
かれこれ23年の付き合いになるし、毎週毎月ケンカもめちゃくちゃするけど、いまだに大好きなのだ。
結局、ガンだったから私たちは子を残すことはできなかったけれど、ここまで一緒にいられる人にはきっと出会えない。
パートナーであり、親であり、息子であり、同僚であり、同志であり、先輩であり、親友であり、弟であり、お兄ちゃんのような人。
しいて生きたい理由があるとするならば、彼を悲しませたくない。
私が彼を悲しませることになったら私も一番悲しい。
すごく一般論だけど、こうやって一緒に過ごしている時間がこの上なくうれしい。
ずっと一緒にお惣菜買いに行ったり、お笑い見て爆笑したりしたい。
一緒にコーヒー飲んで、おいしいね、って笑いあいたい。ずっと。
ところで6月の半ば、久しぶりの都内脱出ドライブで、アーツ前橋でやっている廣瀬智央展「地球はレモンのように青い」を見に行った。
どうしても思考は問題解決doingを模索する。期待してdoing、結果に打ちのめされ落胆。何かを「問題」と意識してそこにフォーカスするのも思考doing。
そのループを延々と繰り返してるわたし。(あ、内省しすぎちゃいけないんだった。笑)
展覧会入り口のご挨拶文章に、
「私たちはいつも不確定な現実を生きています。…(中略)…思い通りにならない現実を受け入れ、だからこそ自分らしく生きることの大切さを芸術から知るのかもしれません。」
うぎゃぎゃ…
異なるものをまるごと内包するこの世界の多様性と、矛盾に満ちた両義性、その矛盾を矛盾としてはらみながら、自由に越境していく心を追求しているかのような作品たち。
この作品↓も素敵だった。
『石の表面はごく浅いすり鉢状に削られ、水が満たされ、花が浮かんでいる。花は水がなければ生きられず、水は石がなければそこに存在することができない。それ自体が自立して存在しているものはなく、全てのものは他のものに依存して存在している。。。(略)』
このいのちはなんでここで生きているんだろ。
考えたってわかんない。
私がただ、ここで生きている。
それだけしかわかんない。
とにかく人生は思い通りになんない。
でも今ここで生きてるから、おいしいコーヒーを飲む。
コーヒーは素晴らしく良い香りで、私はしばしうっとりする。