わたしの自然
5月は1年でいちばん好きな季節。
新緑のみずみずしい香りがたまらない。
朝一番に窓を全開にして、土と水と緑のかおりの混ざった風を、思いきり吸い込む。
午前中はお散歩が日課になっています。
よく行くのは近所の霊園。
ここ、いいの。
すこーんと抜けてて、全然淀みがない。
静かでおだやかで、すごいオープン。
大きな緑につつまれていて、無数の草花がところ狭しと色とりどりに咲き乱れていて、おおらかで、ここは極楽浄土か?という感じ。
毎日、毎週、ぐんぐん草の植生が変わるのを眺めながら、透明の風に吹かれながら、草のお花畑の中をのんびり散歩する。
宗教問わずの霊園はいろんな墓があって、それを眺めてるだけでも飽きない。
特に古い区画は、墓石の配置もおおらかで、たくさん草花も咲き乱れていて、いい感じに苔むしていて。
呼吸がしやすい、すーごい、ピースな場所。
かつて生きていた人たちのしるべが静かに佇んでいる場所に、今を生きるわたしたちがゆっくりと回廊する。
中でもおおらかな佇まいがお気に入りのお墓があって、
「こんな風に眠るのもいいなあ~」なんてふと、旦那にもらしたら、
「縁起でもない!二度とそういうこと言わないで!!」とめっちゃ怒られた。
あ、そうか、笑笑
言葉足らずでごめんよ、そういうつもりじゃないから。
今すぐとかではないです。笑
ここ数年は、精神的にも肉体的な意味でも、メタ的にも「死」が意識されて、ずっと切り立った尾根をギリギリ歩くように向き合い続けてきて、むしろそこを経て、今病気を通じてさらに「死」を自分ごととして直面したからか、自分自身の内側にどんどんエネルギッシュに「生」があふれてくる感じがしてるからこそ、そういう言葉がもれたの。
今、42才のこのタイミングで生まれ直してくっぽいから、84才までは第2章を味わいまくるつもりだよ。笑
85才からは余生で第3章かな。
ま、先のことは全くわからないし、この先も一緒にびっくりツアー楽しもうね 笑
不思議よね、肉体の数値や診断的には未だに「悪い」ものを抱えていると世間に見なされてるわたしだけど、今、内側はどんどん軽く、去年以前よりよっぽどすこやかで、身体感覚的にも、内面的にも、もともと持っていた強さを取り戻してきてる感じがある。
こうやって生きながら、常に何度も生死を繰り返してるんだと思う。
自然界の循環もそうだし、全身の細胞のターンオーバーが繰り返す生死もそうだし、
何かに気づくことで、今まで「自分だと思っていた状態」が死に、新しい「状態」を生きる。
その繰り返し。
「自分だと思ってる状態」って、いろんな理由で「自分がそういう人」だと勝手に思い込んでるだけなんよね。
勝手にもう潜在プログラミングが自動反応で動いちゃうから、勝手にそのOSで生きちゃうから、あまりに自分にとって当たり前になっちゃってるから、まさか自分が、そんな思い込みの世界で生きてるなんて誰も思ってない。
その思い込みOSで生きてれば私を守れるから、ってメリットだと思ってたから、ある意味、最善を生きようとしてただけなんよね。
周りの大人たちは、彼らが生きた価値観の視点から、彼らの愛情でそのプログラムを教えて埋め込んでくれた。
その子がこれから先、人生を無事生き延びれるように。
幼い私たち自身も、もう怖い目に合わないですむように、防御するプログラムを身につけて生きてきた。
その時、その瞬間はそれでよかったかもしれない。
でも常に今は瞬間。
常に今は更新され、変化していくもの。
なのに、一度お守りになっちゃったそのOSを搭載し続けて、ほとんど誰もがその初期OSで何十年も生きてる。
あれ?なにかおかしい、、?
わたしの感じていることはどれ、、、、?
気がついたら、自分自身の自然を生きておらず、一生懸命、他人を生きていた、ってこと。
ほんとうのOSは、どれだけ自分にとって自然な状態を生きているか、ってことなんじゃないか。
つまりそれが「生きる」ってことなんじゃないか。
ここで言ってる「自然」は、自然環境の<Nature>じゃなくて、自分にとっての自然、<Natural>の方ね。
誰かがいい、と言ったものを取り入れてる状態ではなくて。
自分自身の中から湧く、素直な自然さに従って生きること。
この、「自分にとって」というのが、すごくだいじだと思う。
それぞれ誰でもしっくりくるものがあるし、自分の感じるものは、他の人にも当てはまるとは限らない。
それででいいと思うし、むしろ、そうであることがすてきで自然だ。
色とりどりの草花のように。
だから、わたしはわたしの自然に従って、居心地の良いように、居たいように整えるっていうか、どうしていたら自分のエネルギーが枯渇しないか、もっと真剣になっていようと思う。
わたしは、自分のことをずっと鈍感だと思っていたんだけれど、周りの人からは「アホか、こんなに敏感なくせにwww」と言われていた。
敏感アンテナの使う方向を間違っていたんだよねー。
察知するのは得意だから、「わたしがこうしたら(こう言ったら)この人は満たされる」という方向に使ってしまっていた。
自分の中に、ほんとうは違和感があっても、必要以上に迎合してしまっていた。
ただでさえ、境界線がゆるいタイプだから、エネルギーをダダ漏れさせてしまっていた。
ほんとうは感知してる自分の内側の要求をないがしろにして、外の人の要求(言葉に出してこない潜在意識的な要求も含む。いやむしろそちらが多い)を満たしていた。
他人のものは他人のもんなんだし、いちいち背負わないでいいのに、
「わたしは、自分の自然を満たせない、生きるためには役割を背負わないと愛されない」っていうOSがまわっていたからね。
自分のいのちに対して、まったくの不自然だよ〜。
不自然ってのはねえ、めちゃくちゃ疲れるんだよ~。
不自然に生きてると、生命エネルギーが入ってこないんだよ~。
このOSパターン、先祖代々脈々と、めっちゃ古かったの。
ガン告知後、最初に必要だったのは先祖との共鳴へのアプローチ。どわーっとさかのぼってtimewaverに共鳴エネルギーを解放を手伝ってもらった。何ヶ月もかかった。やれやれ、この業務をしなきゃいけなかったのも、どうやらガンになった意味だったようだ。
他の人を満たせるのは、自分自身が自分の素直な自然で満たされている人がやれることだ。
自分の素直な自然で満たされていない人が「他人のために」とやることは、自分自身の存在価値が欲しいからだ。
何か足りない、と感じる感覚を埋めたいからだ。
そんなことしなくったって、私たちはもともと価値があるんだってば。
自分が自分の自然に従って生きるだけでよかった。
自分への愛だよ。
そうやって、自分への愛を取り戻して、いわゆる環境の方の自然<Nature>ともつながってまわっていけたらいいな。
植物が二酸化炭素を酸素に変えて放出させているように、自分自身をフィルターに、何かよきものに変換させて放出させたい。
自然界から受け取っているだけじゃなくて、そのお礼に、取り入れた毒素ですら何か澄んだ楽しきものに変えて、地球に返したい。
この肉体で変換して。
まあ、マイペースに少しずつ。
だから、草花に包まれておだやかにあちらへ帰るのはまだ先なの。
今はまだ、ようやくここからまた生きるところなのだから。
それにしても、草花っていいよね。
あの伸びやかさ、可憐さ、ずぶとさ、強さ、
見てて飽きないなぁ。