六本木アートナイト
先日、六本木アートナイトに友人夫妻と一緒に行った。
会うのがものすごく久しぶりだったので、ふと、
「最近、たまにこんなの作ってる」と、
私のartworkのサイトを見せると、
「へええ、どれもいいじゃん、わざわざ見せるってことは、yukoの中での相当な傑作なわけ?」と聞かれた。
よく意味がわからなくて、「ん?どういう意味?」と聞き返すと、
「だって自分の作品、絶対に見せてくれなそうじゃん」と返ってきた。
ああ、そういう意味か、とわかった。笑
確かに、わたしはそうだったなー。
今、tumblrに上げている絵は、その日その時の赴くまま、その時のエネルギー状態の赴くままに、べろーっと手を動かしているものです。
で、それをそのまま全てアップしています。
そうしたら結果的に、なんだけど、その時のエネルギー状態をべろーーーっと魚拓みたいに日記的に写し取っているというか。
もちろん、出来上がってみてから自分自身で
「あ、これ、なんとなく好きかも」とか多少の好みはあるけど、基本日記的なものなので、出来たらアップしています。
そうそう、昔の私はめちゃめちゃジャッジが強かったから、
かっこ悪い自分を人に見せるのがすごく苦痛だったから、
人にどう思われるか、という周りからの評価をすごく気にしていたから、
自分の中でかっこ悪い認定をした自分の部分を絶対見せられなかったのよね。
美術大学に行って自己表現しているつもりでも、
外のモノサシでのジャッジに晒しても恥ずかしくない自分、というふうに、
その時の価値観で思えた部分しか見せられなかったと思う。
「芸術」っていうカテゴリーが無駄に思えて大っ嫌いな時期もあった。
それは対人関係においても、同じで、
どこか、評価されることに対して常に怯えがあったと思う。
まぁ、まだその残滓はあるけれど。
それは私自身が周りに対しても、あれはいい、こっちはダメ、とジャッジ仕分けして世界をみていることと表裏一体なわけで。
自分は意義ある存在ではない、という思いに囚われていたからこそ、
それを穴埋めするかのように、常に意味のあること、意味のある存在を求めていたし、
その投影をした視点で、世の中の全てに色づけして、
その限定された捉えの中での世界に感情としても自己同一化して、
それを「人生」として生きてたと思う。
そんなこんなで、
あー、人の内側ってどうとでも変わっていくな〜と感じた夜でした。
そうそう、アートナイト、楽しかった。
初日夜は、近藤亜樹ちゃん&O-junさんのライブペインティングと、島地保武さんのムーブメントパフォーマンスをはしごしつつ、友人夫妻とごはんを一緒に食べ、深夜の夢の中みたいなキダムの馬パフォーマンスを凍えながら見てました。
2日目は、ミッドタウン&公園2ヶ所ハシゴしつつの、ヒルズアリーナに戻ってきてのパフォーマンスステージ。
それぞれそのまんま自由な時間で、とっても楽しかった。
そういえば、以前別の友達が、
「ちっとも世のため人のためにはならないようなもの。
アートなんてみんなそんなもの。
だけど、生きるためのもの。」
という言葉を残していて、
いやあ、ほんと、その通りだね!