ボルタンスキー展 @庭園美術館
「好きなんじゃない?」と旦那にオススメされて、
庭園美術館でやっているボルタンスキー展に行ってきました。
途中、広尾のcity bakeryでランチ。
ここのパンはほんとうにおいしいなぁ。
たべものを食べている気持ちになる。
こじんまりしていて、そっけなくて、居心地が良くて、
ほんと、近所にあればいいのに。
とにかく、庭園美術館は空間が気持ちよくて、ついつい長居しちゃいます。
どこからか、空間から声が聞こえてくる。
ニュートラルな声。
作り手側からはそこに極力感情的意味を与えないようにしているかのような、
注意深く発せられているようなささやき。
ほかの展示では、紙やブリキで作られたオブジェクトが暗室に置かれ、
光が当てられ、影絵のようにイメージがあらわされていたり。
ニュートラルな声は、聞いた人が自分の中で、
自分の過去からの意味づけや、常識と思っているフィルターからの反応で、
それぞれ意味を見出すんだろうな、と思える作品だった。
その声は能面を思い出させた。
作り手を極限まで抑えて作られている能面。
そこからどう意味を取り出すか、
勝手に感じるかは、演者や鑑賞者のその時によって変わってくる。
その取り出したイメージの積み重ねを人は人生だと思っているんだろう。
影絵の作品も、そこに光が当たる事で=イメージの概念が生まれ、
闇のイメージも自分の中に作られる。
光が強ければ闇も強い。
それはただイメージが相関している現象。
物質としてそこにあるのは日常的な素材。
それが存在する環境から生み出されて相関したイメージ(つまり幻想)を、
人生の実存として取り込んで、そこに同一化して、
それを人生として生きて死んでいくんだなぁ、とふと思った。
思いのイキモノ。
自分はどんなイメージを現実として、現実と思って生きているだろうか?
それとも剥き出しの素材に目を開いてみるのもアリか?
とか、いろいろ思い巡らされる展示でした。
なかなか楽しかった。
ボルタンスキー展示と朝香宮邸室内展が、同じ展示空間で並行開催中で、
なんというか、同じ場所でいろんなチャンネルが変わるので、
自分の中の感覚がいろんな時空間をあっちこっちに引っ張りまわされて、
変な感じのボリュームだった気がする。。。