LIFE LOG

日々のくらし、NES、 ....いろいろなことをつづります

いのちとして素直に在る、こと

 

友達とカフェでいろんな近況報告。

 

内側の整列をお互いサポートしているような

ほんとうにくつろいだ時間。

 

 

いのちとして素直に在る、ということについて、

あれやこれやと盛り上がる。

 

注意深く、自然であること、

場も含めて、存在すべてへの繊細さ、

そうして、不自然で在ることへ気づけること、

 

ふるふるとした、剥き出しのナマのいのちとして、

その小さな声を注意深くすくいあげること。

 

今のエッジを認識し、その上でまたそれすらもプロセスとして俯瞰した状態について。

正直に素直に、在る、のを自分自身許す、サレンダーについて、、、

 

抑え込んだ自分の自然でありたい欲求が発露を求めた先に、

昏睡となることを「無意識が出口としてつかみとる」いのちのもがきについて。

その切実さ、、、etcetc

 

 

 

外を追い求めているとき、在ること、は恐ろしく感じられる。

 

ここにあるいのちそのものでいられず、何か、になろうとする時、

観ることができない時、

その奥に必ず持っている、今のままではダメだという深い恐怖。

 

だから、その小さな声に聞こえないふりをするのはとても簡単だ。

思考はいくらでも理由をひねり出す。

 

 

 

ほんとうは何を感じているの?

 

 

それを感じることが怖いの?

 

 

どうして?

 

 

 

そこに自分自身赦しが起きたとき、それは、在る、にふたたび還る赦し。

子供の頃はそのものだった、在る。

 

 

 

話をしあっていて、奥のrealに触れたような時、

彼女はいつも場が、時空が変わる、という。

 

今日もそんな瞬間があった。

私まで背中がしゅばーっと一瞬熱く気が通ったような感じ。

 

あ、魂的コレクトな何かに触れているんだな、と感じる。

 

 

 

ところで、その時、

近くの席にはテレビで見かける芸人さんがいらした。

 

「オレ、大学時代から真っ赤な服着てるんすよー」と番組で話していたのを前に観たことがあったのだけど、

本当に、そのままで、

さらに、その座っているたたずまい、くつろぎがすごく自然で。

なんとなく「ああ、この人は自分そのままの在りようなのかもな」とふと感じた。

 

それまで友人と話していた内容にもリンクするたたずまいだったので、

妙に印象に残った。

(真っ赤だったしね 笑)

 

 

 

その人がその命として、偽りなく、ただそのまま生命としてあるだけで、

そこに触れた人は勝手に必要な何かをうけとり、何かを感じ、勝手に癒される。

 

 

それぞれの人は、ほんとうに、何者かにならなくていいのだ。

 

外から認められる価値のある「何か」になろうとしなくていいのだ。

 

しいて言えば、注意深く、「自分」そのもので在ることに注ぎ込むだけでいいのだ。

 

在る、に触れたら、それが必要な人はオセロのように変わっていくから、

 

周りを癒そうとする必要もないんだね。

 

 

 

内側の流れ、風向きが変化した感覚。

 

 

小さな声。

 

とてもとても、小さな声。

 

 

注意深く静かに、耳をそばだててみる。。。