LIFE LOG

日々のこと、ガン治療、NES、TimeWaver ....いろいろなことをつづります

EFT & マトリックスリインプリティング 3回目

 

先日、EFT & マトリックスリインプリティングの3回目を受けてきたので、覚え書きです。

 

今回は、なんだか大きな回だったように思う。

 

前回までは、風呂敷にいろーんなものを広がるがままに広げて広げて、吐き出して、みたいなことを自分自身したい気分で、そのままなんでもかんでも吐き出してみていた。

 

今回は、そこを経て出てくるものに委ねよう、という感覚で向き合いました。

 

 

自分の中にあるイメージなどを伝えながら、タッピングをしてもらいながら、テーマの階段を一段、一段、深く降りていく途中、突然ぐわーーーーーーっっっと「苦しい、苦しい」という感情が、ぐにょっとした赤黒い尾をひいた塊となって、自分の中を勢いよくうねって上ってきた。

 

 

そのどろっとした塊が去ったあとも、いろんなイメージが浮かび、

イメージからイメージへ、一歩ずつ深く入ってゆく。

 

 

最後に出てきたのは、

 

かっすかすに水分がなくなって、枯れ果てて、粉のようにポロポロと風化していく死のイメージ。

 

 

「どうしてあげたいですか?」というセラピストさんの声。

 

 

 

そしたら、勝手にイメージの中で、風化した粉に水が混ざり、逆再生イメージが始まった。

 

 

だんだんと脇には水が出現し、湧き水となって流れを作り、さらさらと全てを潤す。

 

 

澄み切った、きれいなきれいな、透き通った水。

 

温度も感じられるようだった。

 

 

くぼみがあればくぼみの形に沿うし、

 

液体から霧にも雪にも変化する。

 

自由にまわる全て。

 

 

どこにでもいつでも満たしている、

 

自由にまわる全て。

 

 

 

 

しばらくそこに浸りきった。

 

その感覚を感じ切った。

 

 

 

 

 

 

終わってから、ぼーぜん。

 

めちゃくちゃ体力も使っていたようで、へとへと。

 

 

 

たぶん、深い場所でひとつ大きな作業をしたのだと思う。

 

 

 

 

勝手に出てきたこのイメージは、シンボルとして、あるインスピレーションを伝えてくれた。

 

 

ある状態を、イメージの中で「死」として固定して持ち続けていたこと。

 

そこを現実として、リアルとして感じて捉えて、生きていること。

 

それが苦しみの奥にあったこと。

 

 

出てきた水のイメージは、それを変換してRe-born=再生のイメージでもあったし、永遠の循環でもあったし、私にとっての生きるそのもの。そのままであるということ。

 

 

そして、そもそも全ては移りゆく、って意味も知らせてくれた。

 

 

状態は、状態でしかない。

 

それをひとつの固定イメージ、たとえば「死」とか、に、固定しなくていい。

 

 

こちらから出てくるイメージと、そこからその次の行き先、エネルギーのベクトルを、ちょん、とセラピストさんに支えてもらい、またマトリックスが展開する、ほんとにジャズセッションという感じでサポートしてもらった。

 

 

 

 

数日経ってみて、すでに変化の芽は出ているのを感じられる。

 

まず感じているのは、内側の何かが軽くなっている体感があること。

なんだろう? こだわって奥の方で息を詰めていた、重苦しい何かがいなくなっている気がする。

 

 

心の内側でのありようもそうだし、身辺でも現実が動きそうな気配。

 

エネルギーが大きく動くと、次に現実に落とし込まれて流れが動く感じ、まさにそれが来ている気配。

 

 

春だしね。楽しみだな。

 

 

 

ちなみに、お世話になったセラピストさんは、

EFTマトリックスインプリンティングを専門にしていらっしゃる湯浅和花さんです。

 

サイトはこちら

 

チャーミングな雰囲気の方で、初対面でもリラックスしてお話できたし、

セッション中はニュートラルな立ち位置がぶれないので、安心して受けられました。

 

 

 

NESもそうだけど、こういうエネルギーにアクセスして自分の変化をサポートしていくセラピーって、まず3回は受けてみないと大きな実感が得づらいだろうな、と思います。

 

もちろん、1回でぐっとくる場合もあるけど、より深い階層にたどり着いていくのは、まず順番に浅い階層の土台をしっかりさせてからじゃないと、結局あとの伸びしろが出てきづらいことも多い。

 

NESにしろ、EFTにしろ受けたら、エネルギー場は100%確実に反応して、動き始めているから。

 

肉体、現象界に現れてくるのはその調整のあとだから、

セッション1回目では、体感レベルでよくわからないことも多い。

(私もよくあるんです)

 

 

その大きな流れへの信頼を自分で持てること、

 

セラピスト視点からいくと、クライアントさんに持ってもらえること、

 

 

自分自身がセラピスト側の時も、伝えられているか悩ましかったりもするけれど、

ま、全ては必要なことがなるようになっているから、ま、いっか(笑)

 

 

ボルタンスキー展 @庭園美術館

「好きなんじゃない?」と旦那にオススメされて、

庭園美術館でやっている​ボルタンスキー展に行ってきました。

 

途中、広尾のcity bakeryでランチ。

ここのパンはほんとうにおいしいなぁ。

たべものを食べている気持ちになる。

こじんまりしていて、そっけなくて、居心地が良くて、

ほんと、近所にあればいいのに。

 

 

とにかく、庭園美術館は空間が気持ちよくて、ついつい長居しちゃいます。

 

IMG_9200.JPG

 

 

 

どこからか、空間から声が聞こえてくる。

 

ニュートラルな声。

作り手側からはそこに極力感情的意味を与えないようにしているかのような、

注意深く発せられているようなささやき。

 

ほかの展示では、紙やブリキで作られたオブジェクトが暗室に置かれ、

光が当てられ、影絵のようにイメージがあらわされていたり。

 

 

ニュートラルな声は、聞いた人が自分の中で、

自分の過去からの意味づけや、常識と思っているフィルターからの反応で、

それぞれ意味を見出すんだろうな、と思える作品だった。

 

その声は能面を思い出させた。

作り手を極限まで抑えて作られている能面。

 

そこからどう意味を取り出すか、

勝手に感じるかは、演者や鑑賞者のその時によって変わってくる。

 

その取り出したイメージの積み重ねを人は人生だと思っているんだろう。

 

影絵の作品も、そこに光が当たる事で=イメージの概念が生まれ、

闇のイメージも自分の中に作られる。

 

光が強ければ闇も強い。

それはただイメージが相関している現象。

 

物質としてそこにあるのは日常的な素材。

 

それが存在する環境から生み出されて相関したイメージ(つまり幻想)を、

人生の実存として取り込んで、そこに同一化して、

それを人生として生きて死んでいくんだなぁ、とふと思った。

 

思いのイキモノ。

 

自分はどんなイメージを現実として、現実と思って生きているだろうか?

 

それとも剥き出しの素材に目を開いてみるのもアリか?

 

とか、いろいろ思い巡らされる展示でした。

なかなか楽しかった。

 

 

ボルタンスキー展示と朝香宮邸室内展が、同じ展示空間で並行開催中で、

なんというか、同じ場所でいろんなチャンネルが変わるので、

自分の中の感覚がいろんな時空間をあっちこっちに引っ張りまわされて、

変な感じのボリュームだった気がする。。。

 

 

いのちとして素直に在る、こと

 

友達とカフェでいろんな近況報告。

 

内側の整列をお互いサポートしているような

ほんとうにくつろいだ時間。

 

 

いのちとして素直に在る、ということについて、

あれやこれやと盛り上がる。

 

注意深く、自然であること、

場も含めて、存在すべてへの繊細さ、

そうして、不自然で在ることへ気づけること、

 

ふるふるとした、剥き出しのナマのいのちとして、

その小さな声を注意深くすくいあげること。

 

今のエッジを認識し、その上でまたそれすらもプロセスとして俯瞰した状態について。

正直に素直に、在る、のを自分自身許す、サレンダーについて、、、

 

抑え込んだ自分の自然でありたい欲求が発露を求めた先に、

昏睡となることを「無意識が出口としてつかみとる」いのちのもがきについて。

その切実さ、、、etcetc

 

 

 

外を追い求めているとき、在ること、は恐ろしく感じられる。

 

ここにあるいのちそのものでいられず、何か、になろうとする時、

観ることができない時、

その奥に必ず持っている、今のままではダメだという深い恐怖。

 

だから、その小さな声に聞こえないふりをするのはとても簡単だ。

思考はいくらでも理由をひねり出す。

 

 

 

ほんとうは何を感じているの?

 

 

それを感じることが怖いの?

 

 

どうして?

 

 

 

そこに自分自身赦しが起きたとき、それは、在る、にふたたび還る赦し。

子供の頃はそのものだった、在る。

 

 

 

話をしあっていて、奥のrealに触れたような時、

彼女はいつも場が、時空が変わる、という。

 

今日もそんな瞬間があった。

私まで背中がしゅばーっと一瞬熱く気が通ったような感じ。

 

あ、魂的コレクトな何かに触れているんだな、と感じる。

 

 

 

ところで、その時、

近くの席にはテレビで見かける芸人さんがいらした。

 

「オレ、大学時代から真っ赤な服着てるんすよー」と番組で話していたのを前に観たことがあったのだけど、

本当に、そのままで、

さらに、その座っているたたずまい、くつろぎがすごく自然で。

なんとなく「ああ、この人は自分そのままの在りようなのかもな」とふと感じた。

 

それまで友人と話していた内容にもリンクするたたずまいだったので、

妙に印象に残った。

(真っ赤だったしね 笑)

 

 

 

その人がその命として、偽りなく、ただそのまま生命としてあるだけで、

そこに触れた人は勝手に必要な何かをうけとり、何かを感じ、勝手に癒される。

 

 

それぞれの人は、ほんとうに、何者かにならなくていいのだ。

 

外から認められる価値のある「何か」になろうとしなくていいのだ。

 

しいて言えば、注意深く、「自分」そのもので在ることに注ぎ込むだけでいいのだ。

 

在る、に触れたら、それが必要な人はオセロのように変わっていくから、

 

周りを癒そうとする必要もないんだね。

 

 

 

内側の流れ、風向きが変化した感覚。

 

 

小さな声。

 

とてもとても、小さな声。

 

 

注意深く静かに、耳をそばだててみる。。。

 

 

つながり

 

セッションでは、自分自身の内面でフォーカスしたいことをあらかじめ考えてきてもらってスキャンをしています。

 

フォーカス無しでスキャンすることもあるけれど、

気持ちのフォーカスをすると、よりその人自身の中にある答えが画面上に現れていきます。

 

量子の世界では、「観測」されるまで、全ての状態が「可能性」として多次元に重なりあった状態で存在していて、人間の意識がある特定の方向性に向く=「観測すること」によって、初めて量子が存在エネルギーとして、無数の可能性の中からひとつの状態を確定させる、と言われています。

 

スキャンに向けて気持ちのフォーカスをする、というのが、この「観測すること」とも言えるのですね。

無数の可能性の中からひとつの方向性を意図して、そのルートから全体を観ていく、というかんじです。

 

意識が向いた方向性、つまり、スキャン時にイメージした状態をひとつのゴールとするなら、それに対して、いま「ここの部分の流れが引っかかっているみたいよ」というのが、よりくっきりとした雑味のない状態で画面に出てくるので、その方があとの気づきが深まりやすい気がします。

 

 

一方で、意図を入れず、ただニュートラルに取ったスキャンが、全方向への可能性のための全体の底上げのためのスキャン、とも言えるのかな?と考えています。

これはこれで悪くはなく、おもしろいスキャンになるのだけれど。

自分の全て、全体を俯瞰するような感じ。

でも出方が広大なので、気づきのひっかかりポイントを拾いづらい場合もある。

 

セラピーとしては、ひとつのテーマにフォーカスしていった方が結局は、そのフォーカスをとっかかりとして、自分の中にある深いテーマにつながりやすいな、と感じます。

 

 

 

最近、セッションの中で、神経の流れしかり、リンパ系、体液的な流れしかり、

この辺のことについて、ある種の鬱滞、という情報がテーマとして見えてくることで、いろいろなつながりについて感じることが多かったです。

 

特に神経は、外界をどういう風にとらえて内面に伝え、行動を指示をするか、という役割。

 

自分や、周りの世界をどう認識するか、のフィルターに関わっていそうだし、

そのフィルターが元で、動きたい方向にエネルギーも行動も流れていかない、っていうこともあるだろうな。

 

それの土台として、交感神経・副交感神経など、肉体レベルでの自律神経を整えるのも、改めてものすごくパワフルだ。

 

 

 

物質も目に見えないエネルギーと言われる部分も、すべてエネルギーとして、相似としてフラクタルにリンクしている。

 

いろいろ循環している存在の''自分''として、スキャン時にイメージした周波数状態に近づいていくには、まず一番密度の重い肉体レベルでのさまざまな流れをスムーズにつなげていくこと、、、肉体の密度はパワフルだもんね。

 

肉体に最終的に現れてくる前に、エネルギー場にはさまざまな情報がすでにあるので、そこへのアプローチをとっていくのがエネルギーセラピーだけど、逆に肉体レベルをないがしろにして、もっと微細なエネルギーレベルで何かをどうにかしようとしても、場合によっては効率的ではない順番だったり、できないことはないけれどかえって本人にとってしんどいルートだったり。

 

 

そこへの気づきと行動が促される画面。

 

 

私自身、改めてああ、そうだな〜と再認識。

 

セッションをさせていただく中で、クライアントさんのスキャンから私の方が気づきをもらうこともとても多く、深いレベルでは全ては量子としてつながりあっているのだから、そうかとも納得するけれど、気になっていたキーワード、その時の自分に響くタイミングだったりすると、しみじみありがたいことです。

 

 

出会いやできごとは、その時のお互いにとって、鏡としてさまざまなメッセージを見せてくれる。

私自身なかなか気づかない(受け取らない)ことも普通に多いけれど。

ま、それが人間をやって試行錯誤をする意味なのかな。

 

そして、どう受け取るかも、それぞれが選択したフィルターで毎瞬自由に創造していて、本当はそれが自由ってことで、常に全ての人が手にして日々使っているのかなぁ、と思う。

 

 

リフレッシュ

気がついたらずいぶん冬っぽくなってきた。

日差しも透き通ってきたなぁ。

 

太陽の光って気持ちいい。

思い切り日光の方を向いて、背伸びして、深呼吸。

 

最近は日光に飢えていて、

ひとつぶ残らず全身で日光を吸収したい気分だ。

 

ひまわりってこういう気分なのかなあ?!?!

 

 

 

この秋は、マンションが大規模修繕をしていたので、

ずーっと窓の外側が足場と黒い遮蔽ネットで覆われていて。

 

外壁塗装や全戸ベランダ解体などもあったから、

音や粉塵もすごくて、常に漂う溶剤臭になかなか換気もできず、窓は常に締め切っていた。

 

さらに作業の方も外の足場を行き来するので、2ヶ月間カーテンも閉じたままでした。

 

そろそろ作業も終盤になってきたようです。

連日のおかげで外はきれいに修繕され、

ついに足場と遮蔽幕が外されました。

 

 

 

いやーーーーー、窓とカーテンの開けられる開放感よ!!!

 

 

ばんざーーーーーーーーーい!!!!!!!

 

 

部屋に風が入る!!!!!!!

 

 

換気欲爆発!!!!!!

 

 

なんとなく漂っていた淀みが一気に消え去った気分!!!!!

 

 

空気〜〜〜〜〜!!!!!

 

 

 

 

やっぱり、風と光だいじだ〜。

 

この2ヶ月、少なからず自分自身なんとなく影響を受けていた気がする。

 

 

自分がいちばんだいじにしている部屋の状態って、

ダイレクトに自分の状態にリンクするなあ。

 

 

そうそう、なーんとなく気持ちが淀む時って、

私の場合、家の中の水回り、キッチンとか、トイレとか、お風呂場、洗面所 etcあたりが、

掃除をさぼってどんよりした雰囲気になっていることも多い。

えいやっと掃除をすると、何か内外の循環が変わる感じがする。

 

とはいえ、

上がる気分、下がる気分、どっちも単にバイオリズムだし、

だらだら淀みたい時は淀むに任せることもある。

そのうち淀むのに飽きてきて、

内側から動きたい、が出てくるし。

 

 

人間と同じように建物も内外メンテナンスが必要だし、

建物にとって必要なプロセス期だったわけで。

マンションもリフレッシュ、

私もリフレッシュ。

 

って気分。

 

 

 

風邪の効用

11月は風邪もひいていた。

 

11/4につかまえちゃった。

 

日付を覚えているのは、

その日カフェで目の前で咳き込んでいる人がいて、

「ああ、目の前で、、、、」と、ちょっとなよなよっと気持ちが反応したら

スルッと風邪に共鳴してしまったのか、喉が痛くなってしまった実感が。。。。

 

 

今回は、喉・鼻 風邪でした。

 

でも風邪を引いたときは、この名著を読み返すいいタイミング!と。

 

野口晴哉著『風邪の効用』

 

 

 

 

 

「風邪は治すべきものではなく、経過するもの。偏りの起きた心身の弾力性を回復させようとする、身体の内なる働きが風邪。その身体にとって必要な自然な経過をたどらせれば、さっぱりとした弾力性を取り戻す。」

 

 

風邪の役割を記したことばがしみじみ、ああ、そうだよね、と染み入る。

 

まさにこの本が風邪薬です。

 

 

喉鼻の自分の症状に当てはまりそうなところを見てみると、

 

まさに「前屈体癖の人の風邪」。

 

 

「身体が前屈してしまう元は腰椎一番といって、(中略)この腰椎一番の動きが悪い、ここが弱い体の構造のために前屈してしまう。そういう癖がある人は胸椎五番がいつも鈍くなり、鼻から風邪を引いてくる。……」

 

 

思い当たることがアリアリです。

 

 

 

ところで、風邪のさなかNESのスキャンもしてみました。

 

今修正するポイントだよ、と赤で出たところは

yuko-bando-2016-11-09-02-BFA.png

 

 

・BFA

→エネルギーのドア閉じてる。

 今回の場合、原因は電磁波

 

・PL

→流れが乱されている。

 今回の場合、原因は電磁波

 

・夜のサイクル

→きちんと睡眠サイクル整えるのがオススメ。

 うまくエネルギーが充電できていない。

 

・(別ページで)ブルーライト

→画面見過ぎ。自律神経の変調

 

 

笑えるくらい、土台となるカテゴリーが真っ赤っかでっす。

 

これももう、思い当たることがアリアリで。。。。。 笑

 

 

風邪をひく前の時期、

ちょっとPCやスマホを夜中までずっと長時間いじりすぎてました。

 

それはもちろん前屈姿勢。

 

 

ちゃんと(?)エネルギー場の免疫にも反映されてました。

 

こりゃあ、今回のタイプの風邪に自分からすり寄っていったようなもんだ。

 

 

 

この出方は自分でも恥ずかしいくらい思い当たるので、

エネルギー調整レメディは飲みません。

 

エネルギー整えるうんぬんより、

表示されてる睡眠サイクル、電磁波、ブルーライトな生活習慣を見直す方がだいじ〜!

 

、、、、ということで、

必要な時以外は、PC、スマホを使わず、

ぐだぐだしていた生活リズムをビシッと整え、

安静にして休む!

 

 

、、、、こうやって書くと、基本のことだなぁ。笑

 

 

 

おかげさまで今はもうピンピンとこざっぱり復活しています。

 

 

ふだんの生活のひとつひとつのリズム、やっぱり大事だね。

 

 

 

リバレーター、再び(3)&EFT

感情の大解放をしたり、風邪をひいたり、

めくるめくな11月を過ごしています。

さて、

何から書こうかな。

 

 

潜在意識を揺さぶる、せっかくのリバレーター期、

このタイミングで、ずっと気になっていたEFTマトリックスインプリンティングのセッションを受けてみようと予約。

(これらのセラピーについて詳しくはこちらを)

 

完全なカウンセリングタイプのセッションを受けに行くのは初めてなので、ちょっと緊張もしつつ。

 

 

私の中での感覚の浮き上がりに呼応するように、身体のあちこちのポイントを言葉に合わせてタッピング。

 

 

けっこうジャブのように、いろんな感情が浮き上がったり、思い出したりして、

その場でもいろいろ解放しました。

 

 

帰宅してから、そのままのゆらゆらした状態で内観していたら、

ハッとする気づきがあった。

 

 

自己否定的な気持ちになることについて、

そうならない自分を中心に据えたい気持ちもあり、探求して生きていたんだけど、

それがそもそも、ぜんっぜんコアビリーフの為せる単なるパターンだったということに気づいた。

 

何をするかは、どう生きるかは全く問題じゃなかった。

 

 

私の強い潜在ビリーフは、

「どんなところ、状況にいても何をしていても」ダメだと思ってしまう、ことだった。。。

 

そのビリーフは、それを強化する出来事に過剰に反応するフィルターを自分に被せて、

「ほら、やっぱりダメなんだ」という思いに力を与えていた。。。

 

その捉えパターンで、何をやっていようとも、「今」にダメ出しをすることに気づいた。

 

そこに「逆説的に」安息を得て、コアビリーフを守っている。

そのビリーフに守られていたら身動きをしないで済む。

「うまくやれないから怖いの」のパターンで、実は必死に守っていたもの。

 

 

これ。。。。

 

バンッ!!!!!!

 

って弾けた感覚。。。。。

 

あーーーーーー!!!!

 

って感じ。。。。。

 

 

 

私にとって、めちゃくちゃ大きな気づきだった。。。

 

NESのスキャンで、リバレーター(潜在意識)カテゴリーで表示されたコアビリーフ、

「ありのままの私は不十分」は、

まさに、ループの信念で自分自身を一生懸命守っていたのだな。

 

 

 

これは本当に大きなできごとだった。

 

自分で思い込んだ幻想だと気づいたら、もう手放していいのかもしれない。

 

守る理由がなくなってしまったから。。。。

 

 

 

 

、、、ここまででも十分な気づきなんだけど、、、、

 

やっぱり、マトリックスインプリンティングまで受けてみたいから、

このコアビリーフを形成する根っこを探ります。笑

 

 

 

 

 

六本木アートナイト

artnight_1.jpg

 

先日、六本木アートナイトに友人夫妻と一緒に行った。

 

会うのがものすごく久しぶりだったので、ふと、

「最近、たまにこんなの作ってる」と、

私のartworkのサイトを見せると、

 

「へええ、どれもいいじゃん、わざわざ見せるってことは、yukoの中での相当な傑作なわけ?」と聞かれた。

 

よく意味がわからなくて、「ん?どういう意味?」と聞き返すと、

「だって自分の作品、絶対に見せてくれなそうじゃん」と返ってきた。

 

 

ああ、そういう意味か、とわかった。笑

 

確かに、わたしはそうだったなー。

 

 

 

今、tumblrに上げている絵は、その日その時の赴くまま、その時のエネルギー状態の赴くままに、べろーっと手を動かしているものです。

 

で、それをそのまま全てアップしています。

 

そうしたら結果的に、なんだけど、その時のエネルギー状態をべろーーーっと魚拓みたいに日記的に写し取っているというか。

 

もちろん、出来上がってみてから自分自身で

「あ、これ、なんとなく好きかも」とか多少の好みはあるけど、基本日記的なものなので、出来たらアップしています。

 

 

そうそう、昔の私はめちゃめちゃジャッジが強かったから、

かっこ悪い自分を人に見せるのがすごく苦痛だったから、

人にどう思われるか、という周りからの評価をすごく気にしていたから、

自分の中でかっこ悪い認定をした自分の部分を絶対見せられなかったのよね。

 

 

美術大学に行って自己表現しているつもりでも、

外のモノサシでのジャッジに晒しても恥ずかしくない自分、というふうに、

その時の価値観で思えた部分しか見せられなかったと思う。

 

「芸術」っていうカテゴリーが無駄に思えて大っ嫌いな時期もあった。

 

それは対人関係においても、同じで、

どこか、評価されることに対して常に怯えがあったと思う。

まぁ、まだその残滓はあるけれど。

 

 

それは私自身が周りに対しても、あれはいい、こっちはダメ、とジャッジ仕分けして世界をみていることと表裏一体なわけで。

 

 

自分は意義ある存在ではない、という思いに囚われていたからこそ、

それを穴埋めするかのように、常に意味のあること、意味のある存在を求めていたし、

 

その投影をした視点で、世の中の全てに色づけして、

その限定された捉えの中での世界に感情としても自己同一化して、

それを「人生」として生きてたと思う。

 

 

 

そんなこんなで、

あー、人の内側ってどうとでも変わっていくな〜と感じた夜でした。

 

 

 

そうそう、アートナイト、楽しかった。

 

初日夜は、近藤亜樹ちゃん&O-junさんのライブペインティングと、島地保武さんのムーブメントパフォーマンスをはしごしつつ、友人夫妻とごはんを一緒に食べ、深夜の夢の中みたいなキダムの馬パフォーマンスを凍えながら見てました。

 

2日目は、ミッドタウン&公園2ヶ所ハシゴしつつの、ヒルズアリーナに戻ってきてのパフォーマンスステージ。

 

それぞれそのまんま自由な時間で、とっても楽しかった。

 

 

 

そういえば、以前別の友達が、

 

 

「ちっとも世のため人のためにはならないようなもの。

 

アートなんてみんなそんなもの。

 

だけど、生きるためのもの。」

 

 

 

という言葉を残していて、

 

いやあ、ほんと、その通りだね!

 

 

artnight_2.jpg

リバレーター、再び(2)

 

10日くらい下地を作って、先日からリバレーターボトル(LIB)を始めている。

 

今回はED 2(前回参照)もあったし、いい感じで通り道の下地が整った気もして、予定より早めの投入です。

 

 

最初の3日くらいで、感情の噴き出しが少し起こった。

 

きっかけは、たまたまつけたTVに、昔(今も)尊敬してやまなかった方が出ていた。

ずっと静かで太いたたずまいの人、変わらない。

 

実は、前回のLIB期はこの人が出てた雑誌も感情解放のトリガーになったんですが。

またです。笑

リバレーター、引っ張ってきますね。笑

 

尊敬の裏には私の場合、羨み(今回のESR)と自己卑下(LIB)が潜んでいるからね。

やっぱりまだ奥底で残滓が引っかかっているのな。

 

 

 

ふと、相手を変わらない、と見て思うのは、私の自我の勝手な想像だ、と気づく。

 

そこには真実はなく、自分が勝手に作ったフィルターストーリー。

わたしがそういう視点でその人を見て勝手に思って脳内上映していること。

 

 

と、ここで、

この視点のパターンの根っこになるトリガーに薄々気づく。

 

たぶん、3歳のころのことなんだろうな。

 

 

 

「羨み」キーワードで出てくるのは、

「すごいじぶんじゃないと愛されない」と思い込んでいるからだよな。

 

 

その根っこのパターンは、全体的な色合いとして、

勝手に自分を劣、とし、

自分芝居のなかで優認定な相手へ羨みが出る。

 

優劣をつけているね。

 

ジャッジ。

心の一人芝居。

 

その気持ちが凝縮の根っこにある。

 

 

エネルギーに優劣はないし、

優劣は自我の一人芝居でしかない、と「頭で」わかっている。

じゃあなぜ凝縮する?

 

「すごいじぶん」でないと愛されないと思いこんでいる、癒されていない古い感情。

 

「誰に?」

 

 

ここが今回のEI 2ともつながるなあ。

 

 

、、、翌日、

同僚とのミーティングで、そのことについての話になり、ぶわっと感情解放が起こる。

リバレーター期ということもわかってくれているので、

こういう時、いてくれる、というだけで支えになる。

そのことがありがたかった。

 

 

一回詰まった塊を通したら、真剣に情報が来るモードになった。

いや、たぶん今までもきているんだけど、うまく受け取れていなかったのかも。

 

「情報」は、メッセージ、とも言えるけど、見たり聞いたりするもの、としてやってきていたり。

パターンを変えるための出来事として降りかかってきていたり。

自分が予想してない、思いもしない方角からぶっこまれていたりする。

 

だからそれが入り口だと気づかないことも多いかもしれない。

 

でもそれはそれで、アリなんだ。

常に自分のタイミングを信頼していい。

 

 

、、、そんな感じ。

 

うーん、うまく言えているのかな、、、、

 

(本来の流れに近づくと、必要なものもパッと手に入ったりもする。それはそれでうれしい。笑)

 

 

NESボトルを使っている時は、

その時のスキャンテーマの持つ周波数帯に、自分がそろっていくことに向けて、

その周波数、意識に移行(?)していくフックになるっぽい情報や出来事に気付きやすくなるし、

エネルギー場の残りカスが、身体や感情を出口にして外に出て行くし、

その流れに委ねたあり方に自分自身、していくんだけど、

 

LIBの時は特にすべてがそれ色になる、なかなか真剣な期間、な気持ちがしている。

 

他のボトルの期間も、同じくそれぞれ大事な調整が行われているんだけど、

なんかこう、LIBの時はより神聖な感じがする。

 

 

 

気がつくと、視点が変わっている。

ものの見方、捉え方が変わるので、結果的に性格まで変わっていたり。

 

今までの自分が作り上げた鎧が、新しい周波数帯、意識になった自分にはもう必要なくなるので、

より本来のあり方があらわになっていく感じ。

 

 

今回も、徐々に出始めている。

特に人に会うと、自分自身の内面の変化がよく分かる。

(前は絶対に取らなかったであろう態度を自然にとっていたりするから。)

 

 

これは私の場合で、人によってはもっと激しく感情の大解放パターンの人もいるだろうし、

(特に、向精神薬を飲んでいる人には絶対にLIBは渡せない。。。)

身体を出口として、肉体症状として、エネルギーフィールドからのデトックスが起こる人もいる。

 

その人の今までの人生パターン(生まれる前も含めて、の場合もある)のため方、

エネルギーフィールドに残しているブロックへの意識の関わり方の違いも含めて、

解毒&解放反応の出方は千差万別の、それこそオリジナルな反応になっていくのだと思う。

 

 

ちなみに私は、あまり身体が出口にならないタイプらしい。

 

たまに、体感系が来たらアトラクションみたいで楽しいのになー。

 

 

 

今回は、

「湧いてくるまで動かない」とか

「動かないことを許す」的な情報も飛び込んでくる。

 

動かないこと、自己信頼についての内観もしつつ、来た流れに乗る。

ジャッジを入れない練習。

 

 

そうか、理由と行き先を求めていたのもフィルターだった、と腑に落ちて、

無性にただ表れてくる絵を描きたいと思って、一気に手を動かしたり。

 

これもプロセスにつながっていくっぽい。

 

 

前回のLIB期と同じく、ノンデュアリティ的な方向に惹かれていく。

 

その中で、半年前との自身の内面の違いもかいま見えて、

やっぱり変化しているんだなぁ、と、おもしろがりつつ、

日々に向き合っています。

 

 

リバレーター、再び(1)

 

先日、NESの自己スキャン。

 

、、、あ、NESは、私がセラピーで使っているシステムで、

人のエネルギー(量子場)情報、つまり、「見えないからだ」の情報をスキャンして、

その人の心身のエネルギー場の、本来の流れと今の流れとの差に気づいていけるよう、

より楽ちんな、すこやかな心身の自己治癒力の流れ方に戻っていく手助けをしていくものです。

 

詳しくはこちら

 

 

肉体はまったくスキャンせず、量子エネルギー場にしかアプローチしないけれど、

 

結果的に、身体や、意識、考え方、モノの捉え方、自分を取り巻く現象etcを

自分自身の手で変えていく「自分の根源」が発動し始めます。

 

いつでも、自分自身の全てを決めて、身体も心も状況も創り上げているのは周りではなく「自分自身」。

 

NESは、それに気づいて、自分で変化していくためのサポートセラピーです。

  

 

 

さて。

 

今回のスキャンではふと、フォーカス角度を前回までと変えてみました。

なんかその方がしっくりくる気がしたの。

エネルギー場としてはテーマとして継続されているだろうし。

 

視点の角度を変えてみる、というか。

 

今回は、「残された収縮したエネルギーがふわっとひろがった軽やかなイメージ」

 

 

そのスキャン結果による、今回のNESのキーポイントは、

ESR、ED 2、ED 15、EI 2、LIBの5領域。

 

 

で、出たよ、、、、。

 

リバレーター!!!!!!

 

 

 

、、、そして、、、ESR(顕在意識)とLIB(潜在意識)同時。笑

 

 

リバレーター(LIB)は、NESの開発者、故ピーター・フレーザー氏曰く「自身の最高傑作」だそうで、

潜在意識(ブレインホログラム)内の4つの全領域とつながる各エネルギーフィールドに、同時に働きかけていくもの。

めちゃくちゃパワフルで、ワクワクするボトルです。

 

今年の3月に一度リバレーターの出番が回ってきた時、

実際に、自分自身大きな変化と気づきが起きたターニングポイントになったのよね。。。

 

いつもは、3本での調整をしていくけれど、

今回はちょっと5本でがっつり取り組んでみようと思います。

 

 

スキャンで示されるボトルは、

「今、そこのレベルに取り組む準備ができているよ。全体が変化するために、その部分に取り組むと一番スムーズな場所だ、ってあなた自身が言っていますよ」の合図。

 

NESは、コンピューターがあなたはこうですよ、と指示をしてくるものではなく、

自分自身のエネルギー場に書いてあることをただただ、鏡のように映してみせるだけなのです。

 

「あなたは、こういうことだと本当は自分でわかっているらしいよ。思い出せる?」と。

 

全ての答えは自分の中にあって、もう持っている、ということ。。。

 

 

じゃあ、今月は潜在意識の旅に行っちゃおう! 笑

 

IMG_8980.JPG

 

 

スキャン画面と出てきたボトルからざっくりと見てみるに、

 

1:ESR

顕在意識感情ストレス。

さらに一枚めくって、具体的な感情は「妬み・嫉妬」

 

2:ED 2

細胞が正しく活動していくために、どこにどう情報が流れ、エネルギーがながれていくかのフィールド。

明確な自己表現が得意でない様子。

 

3:ED 15

膵臓につながるフィールド。

優先順位の整理をつけること。

 

4:EI 2

心臓/肺経。

知性(頭)と感情・心(心臓)の間の葛藤→呼吸を抑圧

深い悲しみ

 

5:LIB

潜在意識・慢性ストレス

さらに一枚めくって、具体的な信念は、「ありのままの私は不十分」

 

 

 

おおっ!

きたよ、きたよ。

 

 

このスキャン結果の雰囲気は、私の原点のひとつを思い起こさせる。。。

 

どうにも自分の感情と向き合わないといけなくなった、10代後半〜20代、切羽詰まった中で手探りで始めた内観、自問自答。

この時から少しずつ、自分の思いを観察し、掘り下げ、手放し、というのを覚えて、

いろんな気づきの中で生きてきた気がします。

 

 

昔しまい込んだことをもう一度見つめてみよう、という気持ちがふと湧いてくる。

 

 

スキャンテーマにした「残された凝縮したエネルギーがふわっとひろがった軽やかなイメージ」の周波数帯な自分と、今の自分とのズレは、

「ありのままの私は不十分」という感情を塊として持ち運び続けさせている思い、は何か???、にヒントがあるよ。。。ということ。

 

私が今回イメージした凝縮したエネルギー、は自我のイメージ。

 

スキャン結果で出てきた結果は、まさに、

物心ついたころから、今に至るまで、強度の差はあるけれど、

「私」という人間の枠として、自分の自我の根底に流れ続ける、

ある種のパターン、ということが、一瞬であぶり出された。。。。

 

いやあ、、、、ほんとエネルギー場にごまかしは通用しない。。。笑

 

 

このパターンで作りあげた自分の枠で生きていくの、もうほんとは不自然だ、ってわかってるね、ってことだ。

 

 

根っこにある信念

「ありのままの私は不十分」

 

常に今手にしていない何かを求めていかないと満たされない、という刷り込み。

これ、自分自身で刷り込んでるのね。

 

この無意識の信念は、常により良い何かを求める、まだ自分が手にしていないより良い何かがこの先あるにちがいない、まだ今は不十分だ、まだ満足していない、という思い。

だから、社会的に生きていくには良いガソリンなのかもしれない。

そういう人も多いとおもう。

 

人によっては、それを仕事に投影していたり、金銭的なことだったり、家族関係だったり、友人だったり。

いろんなパターンあるよね、

 

私には◯◯が足りない、

これがうまくいけば幸せになるんじゃないか、という幻想。

何かが、何かが、、、

足りない、足りない

、、、etc

 

 

その根っこの信念の裏、潜在意識には、自己否定の感覚が染み込んでおり。

 

単なるありのままの表れの世界に、このフィルターを通して世界を、人を、出来事を、自分をジャッジして物語を作り上げながら、自分の感情反応、言うこと、行動が選択され、自分に表れてくる人生を作り上げてる。

 

それが顕在意識で感情ストレスとして現れる時、私の場合「羨み」になりやすいわけだ。

 

そうすればエネルギー的に分離と凝縮が強まる。。。

自分だけの見方の閉じられた世界の中で、

まるで自分が持っていないものを手にしているかのように見える

(実際は何も変わらない)他人を羨む視点に、

自分自身(の周波数)世界観が固定されて、その感情毒に心身がやられちゃうパターンがあるね、ということ。

 

 

ここ最近のことで胸に手を当ててみると、

「ああ、結局、あの時の自分の反応もつまりはそうであったなぁ」と浮かぶことがアリ。

 

いやあ、出てくるよ、確かに出てくる!

 

気づいたら、あとは、ありのままの今にくつろいでみる。

ただそういう反応をしていたね、ってだけだから、そんな自分をジャッジして意味付けする必要もなく。

 

でも、くつろいでいるように、自分に嘘をつきたくなったりもする。

 

それでもいい、今はそれでいい。

 

でも、ごまかし続けるのは、そのうちつらさがふえていく。

ごまかすのは、自分自身への本当の声への背徳。

さらなる分離。

 

 

不自然な状態は、なんだかもう保てない時代になってきている気がするね、とこないだ友人とも話していた。

 

体感でぎゅーっとしているか、ふんわりするかで、いま、自然か不自然なのかはなんとなく探れる。

ジャッジを入れず、自分の中の自然をさぐる。

湧いてきたら、行動に反映させる。

 

この繰り返し。。。

 

 

 

エネルギーの在りようは、この世の全ては、一つも分離して存在していない。

量子物理学で、そのことが証明されちゃった。

 

でも「凝縮した自己」という錯覚の感覚が、「世界」を作り上げる。

 

、、、とはいっても、私だって長年この凝縮の仕方?を自分だと同一視(つまり勘違い)しているから、なかなかこれは。笑

 

 

さて。

 

一応、4本で土台を先に整えて、リバレーターだけは2週間ずらしで後から投入しようと思う。

(何しろESRが出ているから、リバレーターを跳ね返しちゃっても困るし。笑)

 

今回のボトル期間、さてどう気づきが起きてくるか、どんな出来事が降りかかってくるか(笑)、とても楽しみです。

 

人体実験。ふふふふ。

 

 

今回は、めずらしく体感系で反応っぽさがさっそく出てきている。

 

エネルギー場の変化の現れが、現象の変化で出来事が降りかかってきて引っ張られていくパターンの多いわたしは、デトックス系が体感でくるのはめずらしい。

 

   ↑

※ 出来事、というのは、このレメディ達は、本来ここでしょ?という周波数帯に自分が整っていくための、視点と意識が変わっていくための、そのトリガーとなる出来事を、「ほーらよっ」とふっかけてくるのです。

 

ふっかける、って人聞きが悪いなあ。笑

でも、その時は気づいていなくても、あとで振り返った時に、全て腑に落ちていく。。。